You Like Bohemian
─小林秀雄
「これまで述べたこと全部からして結局、本書は、次のような人には、全く何らの参考にもなりえないであろう。すなわち、すでに自分の哲学や自分の哲学的方法について確信を持っている人。したがって、哲学に心を奪われ惚れ込んでしまうという不幸に見舞われた者の絶望感を、一度たりとも味わったことのない人。そして、哲学を学び始めた頃すでにもろもろの哲学が乱立しているのを見て、そのどれを選んだらよいのかを考えさせられ、結局、そこでは選択などが本来そもそも問題となりえないのだということを、少しも感じたことのないような人」。
エドムント・フッサール『イデーン』
江藤淳は、『小林秀雄』の冒頭部分で、「人は詩人や小説家になることができる。だが、いったい批評家になるということはなにを意味するであろうか」という問いを発している。しかし、批評家が権威を持ち始めたのは、神の死に基づく近代に入ってからである。
海野弘は、『〈モダン・アート〉とはなにか』において、資本主義の勃興によって批評家の重要性が増したと次のように述べている。
階級的保護を失い、現代の商品社会、広告社会に投げこまれたモダン・アートは、商品化を避けることができず、その差異性を示すためのことば(宣言、広告)を持たなければならなかった。モダン・アートの特徴である、ことばの重要性をそれは予告している。美術がこれほどたくさんのことばを持ったことはなかった。美術があって、それを語ることばがくるのではなく、むしろ、まずことばが発せられ、そのことばにうながされて、美術作品があらわれるといっていいほどだ。
このような、ことば(観念、記号)の先行性からして、批評がそれまでとは比較にならないほど大きな影響力を持つようになる。批評家はモダン・アートの秘密をにぎる権威として振舞うようになる。モダン・アートは難解であり、一部のエリートによって解読できるという神話がつくりあげられる。
日本では、明治維新を契機に近代化が国策として推進されてきたが、モダン・アートが本格的に受容されていくには大正時代を待たなければならない。関東大震災後、モダニズムが流行し、かつてないほどの出版ブームが巻き起こり、大衆文化が花開く。そういった時代的・社会的背景の下、「批評家」と呼ぶに値するスターの誕生が期待され、登場する。それが小林秀雄である。「美しい『花』がある。『花』の美しさという様なものはない」(小林秀雄『当麻』)。
雑誌『改造』一九二九年九月号にその年の懸賞新人賞の結果が発表になり、宮本顕治の芥川龍之介論『敗北の文学』に次ぐ二席に小林秀雄の『様々なる意匠』が掲載される。雑誌が公募する新人賞を通じて、文芸批評家としてデビューするという後に形成される制度の最初の例である。
中村光夫は、『小林秀雄初期文芸論集』の「解説」において、『様々なる意匠』の登場について次のように述べている。
昭和四年に発表された「様々なる意匠」はこの両者の報告書と見るべき論文です。これが当時の大雑誌『改造』の懸賞に応募した論文であること、それが氏の予期に反して一等に当選せず、代って首位を占めたのは宮本顕治の芥川龍之介論「敗北の文学」であったことなど、当時の文壇の風潮を象徴する挿話といえましょう。宮本氏の論文がその内容よりもむしろレトリックにおいてまさっているのにたいして、小林氏は、前作「ランボオ」の特色をなした華麗な修辞をまったく捨て、一切装飾を排した平明な文章に終始します。内容もまた現代文学の偏見のない見取図をつくることを目的としているもので、前作のような主観の燃焼は一切斥けられ、地図をつくるような公正を意図していたといえます。
『様々なる意匠』は小林秀雄の批評宣言である。当時、大部分の批評家はある流派の属し、その発展に寄与することを責務と考えていたのに対し、「問題を提出したり解決しようしたりとは思はぬ」と異議を申し立てる。各流派が崇める「意匠」の背後に隠された素朴な文学観を批判して、文学の本質的な姿を探究すべきだと提唱する。「マルクス主義文学」や「芸術のための芸術」、「写実主義」、「象徴主義」、「新感覚派文学」、「大衆文芸」などを例にとって、その認識の可能性と限界を批判する。それまで限界を避け、可能性の追及を既存の文学運動は論理にしていたのに対し、小林秀雄は可能性ではなく、限界を対象とする。小林秀雄の批判は、『批評』において、批評はカントの批判を前提にしていなければならず、そこから「あと戻りする必要は、どこにもない」と書いているように、イマヌエル・カントの批判のヴァリエーションである。こうした理論を持つ小林秀雄の登場によって、文学の自立性を意味していた自己完結性が問われ始める。「私は、今日日本文壇の様々な意匠の、少なくとも重要とみえるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。ただ一つの意匠をあまり信用し過ぎないために、むしろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない」。
こういった意見は一九〇二年生まれの新人批評家に特有ではない。ウィリアム・ジェームズが、『プラグマティズム』(一九〇七)の中で、自身が属するプラグマティズムを「ホテルの廊下」と譬えている。”As the young Italian
pragmatist Papini has well said, it lies in the midst of our theories, like a
corridor in a hotel. Innumerable chambers open out of it. In one you may find a
man writing an atheistic volume; in the next someone on his knees Praying for
faith and strength; in a third a chemist investigating a body's properties. In
a fourth a system of idealistic metaphysics is being excogitated; in a fifth
the impossibility of metaphysics is being shown”.美学者や形而上学者たちは「ホテルの部屋」であって、そこに閉じこもっているにすぎない。転倒されたカント主義とも呼ぶべきプラグマティズムはそれらに通じているだけでなく、往来し、出会う場だと『様々なる意匠』の二二年前にヘンリー・ジェームズの兄は主張している。「時代意識は自意識より大き過ぎもしなければ小さすぎもしないとは明瞭な事である」(『様々なる意匠』)。批判された流派と同様、小林秀雄も、意識していたかどうかは別にして、このような当時の世界的な思想状況に呼応していた一人である。「人は種々な真実を発見する事は出来るが、発見した真実をすべて所有する事は出来ない」。
 小林秀雄は、『様々なる意匠』において、「意匠」が生まれる過程を次のように明らかにしている。
神は人間に自然を与えるに際し、これを命名しつつ人間に明かしたという事は、恐らく神の叡智であったろう。また、人間が火を発明したように人類という言葉を発明した事も尊敬すべき事であろう。しかし人々は、その各自の内的論理を捨てて、言葉本来のすばらしい社会的実践性の海に投身してしまった。人々はこの報酬として生き生きとした社会的関係を獲得したが、また、罰として、言葉はさまざまなる意匠として彼らの法則をもって、彼らの魔術をもって人々を支配するに至ったのである。そこで言葉の魔術を行わんとする詩人は、先ず言葉の魔術の構造を自覚する事から始めるのである。
 人間は言葉を発明して、社会関係を形成できた代わりに、「様々なる意匠」を持った「言葉の魔術」にたぶらかされるようになる。言葉を使ってその「意匠」の世界を生きる、あるいは言葉の「意匠」につかまれることにより、ある問題を他の人々と共有し、その世界に自分の新しい存在の場所と理由を見出す。しかし、この問題の世界は「意匠」の領域であって、生活の圏内ではない。それぞれの文学の世界解釈が真理と言うよりも信念にすぎないのであり、倫理的な問いを批評は建設すべきだ。世界はそれ自体としては秩序を持っているわけではなく、ある視点に基づく解釈がその秩序を構成しているだけである。
『様々なる意匠』での小林秀雄の理論的主張は、「意匠」の絶対視の拒否、「言葉の魔術の構造」の自覚、倫理の問題への態度変更の三点に要約できる。それらをつなぐのが自意識である。「『自意識』とは〈世界〉のメタ・レベルに立とうとする意識である」と指摘する竹田青飼は、『世界という背理』において、自意識の重荷に悩まされ続けた小林秀雄が書き手として自意識を極限化する方法を選んだのであり、それは「自意識の絶対化」を意味しないと言っている。なるほど、二〇年以上に亘って書き続けられた『ドストエフスキイの作品』の中で、「意識というものの絶対性」を読解のポイントにしている。崩壊期の混乱の中における自意識の絶対性をドストエフスキーの諸作品の読解を通じて次のように主張している。
 実在とはあの朝の光の事だ。確かに外に在り乍ら、私を貫き、私を厭嫌の情を以って満たしたあの光の事だ。生存とは、あの「或る一点」の意識の事だ。意識は意識たる事を決して止めないというあの苦しい意識の事だ。
 ドストエフスキイは、彼自身の話法を借りれば、たとえ、私の苦しい意識が真理の渉外にある荒唐無稽なものであろうとも、私は自分の苦痛と一緒にいたくない、と考えたに相違ない。
意識から出発せざるを得ないというのが「絶対性」の真意であって、その極限化が彼の方法にほかならない。小林秀雄は近代認識論の主観=客観の分裂を問題にし、彼の企てはボードレールからランボーへ、すなわち「自意識の球体を破砕し」た後「我は他者なり」へと至る認識の変遷である。言葉は彼が「自意識の球体」から出るために着目したのであり、「自意識を極限化」し、自意識を超えた「宿命」をつかみ、言葉によって対処する。
小林秀雄は後の作品においてこの手法を強調する。言葉に焦点を合わせ、「その行為の微妙なかたち」の一例として、カール・マルクスを使い、マルクス主義を批判している。彼の『マルクスの悟達』にとれば、唯物論が正しいか正しくないか、あるいは観念論が正しいか正しくないかは何が決定するのかという議論は不毛であり、「貧困した精神」に訪れる。かの偉大なドイツ生まれのユダヤ人は自分の世界の見方を信じ、それを理論として書いただけであって、その正否など誰かが決定すると考えている。小林秀雄のマルクスに対する評価は、彼がこの可能性と限界を是認した上で、そこに世界のミメーシスを編み出そうとした点にある。作家や思想家にとって、重要なのは「意匠」の正否ではなく、世界認識の構築にほかならない。
 『様々なる意匠』の登場は、こうした内容のみならず、後に小林秀雄が近代日本批評家の原型となるにつれ、いくつかの神話が派生する。小説家になれなかった文学青年が文芸批評家になるという神話はその代表であろう。このため、小説家がジム・クラークであり、批評家はリカルド・パトレーゼと見なされてしまう
二席になる前、すでに小林秀雄の小説がいくつか活字になっている。『青銅時代』一九二四年七月号に掲載された『一ツの脳髄』が後の問題意識を最も具現している。船や自動車を乗り継いで、湯ヶ原の旅館に泊まり、その夜、母親のことを回想して、翌日、帰る一人の悩める知識人の「脳髄」に焦点を合わせ、志賀直哉の『城の崎にて』(一九一七)を意識した短編である。
下駄の歯が柔らかい砂地に喰い込む毎に海水が下から静かに滲んた。足元を見詰めて歩いて行く私の目にはそれは脳髄から滲み出る水の様に思われた。水が滲む、水が滲む、と口の中で呟き乍ら、自分の柔らかい頭の面に、一足一足下駄の歯をさし入れた。
ここで描かれる知識人の苦悩に関しては、後に『ドストエフスキイの生活』(一九三五)において、丹念に論じている。小林秀雄は、近代日本の現実はフランス文学的教養との間には齟齬があるが、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーとの間には類似する点があると考えている。ただ、小林秀雄の論点は知識人一般ではなく、モスクワ出身の大作家における問題に限定している。神田生まれの批評家は一般化よりも、むしろ、個別化という傾向を終生持ち続けていく。江藤淳は、『小林秀雄』において、志賀直哉からの影響を重視し、「漱石が発見した『他者』を、志賀直哉は抹殺し去ることによって『暗夜行路』を書いた。そこには絶対化された『自己』があるだけである。小林は、この『自己』を検証するところからはじめた。つまり、彼の批評は、絶対者に魅せられたものが、その不可能を識りつつ自覚的に自己を絶対化しようとする過程から生れる」と言っている。私小説からの出発は彼の批評の方向性を決定づけることになる。
私小説家から転身した批評家は、『経済往来』一九三五年五月号から八月号に亘って、『私小説論』を連載している。文学シーンでは、マルクス主義を標榜するプロレタリア文学が最も影響力があったけれども、小林秀雄は、その頃、党派的に反プロレタリア文学派と見られ、彼らとの緊張関係の中で、文芸批評家のキャリアを積んでいく。
 ところが、当局の弾圧により、プロレタリア文学は事実上崩壊してしまう。小林秀雄は、その状況を踏まえて、マルクス主義文学を経験した後においても依然と残る「私」をどう表現するかを少し前に出た横光利一の『純粋小説論』を補正するように論じている。純粋小説は純文学にして通俗文学というもので、アンドレ・ジッドの影響を受けた横光利一が純文学と通俗文学の止揚のために考案している。それは今で言う「変流文学(Slipstream)」(ブルース・スターリング)のことである。
 小林秀雄は、『私小説論』の中で、マルクス主義文学の影響について次のように述べている。
マルクシズム文学が輸入されるに至って、作家等の日常生活に対する反抗ははじめて決定的なものとなった。輸入されたものは文学的技法ではなく、社会的思想であったという事は、言って見れば当り前の様だが、作家の個人的技法のうちに解消し難い絶対的な普遍的な姿で、思想というものが文壇に輸入されたという事は、わが国近代小説が遭遇した新事件だったのであって、この事件の新しさということを置いて、つづいて起った文学界の混乱を説明し難いのである。
思想が各作家の独特な解釈を許さぬ絶対的な相を帯びていた時、そして実はこれこそ社会化した思想の本来の姿なのだが、新興文学者等はその斬新な姿に酔わざるを得なかった。(略)この時ほど作家達が思想に頼り、理論を信じて制作しようと努めた事は無かったが、亦この時ほど作家達が己れの肉体を無視したこともなかった。彼等は、思想の内面化や肉体化を忘れたのではない。内面化したり肉体化したりするのにはあんまり非常に過ぎる思想の姿に酔ったのであって、この陶酔のなかったところにこの文学運動の意義があった筈はない。
 個人と社会の関係性そのものに関する認識がマルクス主義にある。社会、すなわちゲマインシャフトは個人と対立するが、私小説の「私」は社会と拮抗するのではなく、日常的な人間関係である世間、すなわちゲゼルシャフトの中にある。私小説を可能にしていたのは歴史的・社会的状況であり、それはもはや昭和一〇年代には不可能であって、小林秀雄は『私小説論』で「社会化された私」という言葉で私小説の社会化ではなく、社会的でないと見られていた私小説が、逆説的に、極めて社会的だったと言っている。時代の変容によってマルクス主義文学や新感覚派といった従来の文学では現実をとらえることが困難になったけれども、社会と個人の関係を規定するその現実を把握する新たな文学の希求が生まれている。
 そこで、小林秀雄は日本の近代小説の成立からの特性を考察する。私小説はジャン=ジャック・ルソーの『告白』以降のロマン主義文学の影響下にあり、大正時代、私小説こそが純粋小説だったと指摘する。「人智の進歩」により、私小説は非主流になり、プロレタリア文学が主流になったものの、今の状況に文学は直面している。彼は従来の私小説とは異なる「社会化した『私』」を描く文学の必要性を唱える。「フランスでも、自然主義文学が爛熟期に達した時に、私小説の運動があらわれた。バレスがそうであり、続くジイドもプルウストもそうである。彼らが各自遂にいかなる頂に達したとしても、その創作の動因には、同じ憧憬、つまり十九世紀自然主義思想の重圧のために形式化した人間性を再建しようとする焦燥があった。彼らがこの仕事のために『私』を研究して誤らなかったのは、かっらの『私』がその時既に社会化した『私』であったからである」。小林秀雄はこのように問題の所在を明らかにした後、「私小説は滅んだが、人々は『私』を征服しただろうか。私小説はまた新しい形で現れるだろう。フロオベルの『マダム・ボヴァリイは私だ』という有名な図式が亡びない限り」。
 「社会化した『私』」という問題は、平野謙を代表に後続の文芸批評家たちに長く受け継がれていく。小林秀雄が中心的な文芸批評家と位置付けられるようになったのは、プロレタリア文学崩壊後であり、この作品からである。ここから小林秀雄は後継者を生み出す立場へと変わっている。
『私小説論』の成功は小林秀雄と日本近代文学の「宿命」を顕在化する。小林秀雄の小説家失格は日本近代文学が小説の覇権を正当化するために必要とした神話である。近代文学は小説が覇権を獲得した文学であって、むしろ、その倒錯をそこに見るべきだろう。近代文学以前、詩を尊んだ西洋に限らず、日本でも、小説は傍流にすぎない。Novelの訳語として選ばれた「小説」は、古代中国において、民衆が井戸端会議などでお互いに語り合った面白い話や奇怪な話を意味している。昭和に入って、小林秀雄が私小説家志望をやめて、文芸批評家になったのは、時流に乗った結果であろう。
 
Load up on guns and bring your
friends
It's fun to lose and to pretend
She's over-bored and
self-assured
Oh no, I know, a dirty word
hello, how low
With the lights out it's less
dangerous
Here we are now, entertain us
I feel stupid and contagious
Here we are now, entertain us
A mulatto, an albino
A mosquito, my libido
Yeah!
I'm worse at what I do best
And for this gift I feel
blessed
Our little group/tribe has
always been
And always will until the end
And I forget just why I taste
Oh yeah, I guess it makes me
smile
I found it hard, it was hard to
find
Oh well, whatever, nevermind
hello, how low?
A denial
(Nirvana “Smells Like Teen Spirit”)
小林秀雄は、『私小説論』まで、ある社会的・時代的背景から影響を受けながらも、それらに流されない確固とした自意識の確立を訴えている。以降、同時代の文学作品への発言を控えるようになり、小林秀雄は一つのテーマを中心的に描き続ける。それは歴史と自意識の問題であり、歴史の変化にも揺るがない自意識の獲得である。
近代に入って、日本の文学者が歴史を意識し始めたのは昭和になってからである。それ以前はめまぐるしい近代化の嵐に覆われ、今日と明日にしか関心を示していない。昭和一〇年代に入って、マルクス主義が本格的に輸入され、国粋主義が勃興して、歴史とは何かという問いが主要なトピックとなる。”No future, no future for you,
no future for me”(The Sex Pistols “God
Save The Queen”).
『歴史と文学』は、そういう状況に対して、小林秀雄が応えるため、一九四一年に刊行されている。彼は、それがいかなるものであろうと、特定の歴史観に立って、歴史を捉える態度を批判する。歴史観ではなく、歴史意識が重要だと彼は次のように訴えている。
 歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果の鎖というようなものではないと思います。それは、例えば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史的事実に対して、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば、明らかな事でしょう。母親にとって、歴史事実とは、子供の死という出来事が、幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起こったかという、単にそれだけのものではあるまい。かけ代えのない命が、取返しがつかず失われて了ったという感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。若しこの感情がなければ、子供の死という出来事の成り立ちが、どんなに精しく説明出来たところで、子供の面影が、今もなお眼の前にチラつくというわけには参るまい。歴史事実とは、嘗て或る出来事が在ったというだけでは足りぬ、今もなおその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。母親は、それを知っている筈です。母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言えましょう。死んだ子供については、母親は肝に銘じて知るところがある筈ですが、子供の死という実証的な事実を、肝に銘じて知るわけにはいかないからです。そういう考えを更に一歩進めて言うなら、母親の愛情が、何も彼もの元なのだ。死んだ子供を、今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実があるのだ、と言えましょう。愛しているからこそ、死んだという事実が、退引きならぬ確実なものと在るのであって、死んだ原因を、精しく数え上げたところで、動かし難い子供の面影が、心中に蘇るわけではない。
歴史認識を理論ではなく、実感として意識されるものである。確かに、この比喩は、歴史を考えるには、奇妙であろう。歴史の順序は子供と母親が逆だからだ。しかし、当時は日中戦争が泥沼化し、太平洋戦争前夜だということを忘れてはならない。彼女は銃後の母である。多くの母親がこの「歴史事実」を味わうことになる。
さらに、「歴史の流れをそのまま受け納れと言うが、歴史の流れとは必然の流れであろう。それなら人間の自由は何処にあるのか」と問い、小林秀雄は、『文学と自然』において、次のように答えている。
僕らには歴史を模倣する事以外には何も出来る筈はない。刻々に変る歴史の流れを、虚心に受け納れて、その歴史の中に己れの顔を見るというのが正しいのである。日本の歴史が今こんな形になって皆が大変心配している。そういう時、果して日本は正義の戦をしているのかという様な考えを抱く者は歴史について何事も知らぬ人でありのす。歴史を審判する歴史から離れた正義とは一体何んですか。空想の生んだ鬼であります。
 こういった歴史意識を持ちつつ、小林秀雄は、一九四二年四月号から翌年の六月号までの『文学界』に、中世古典に関するエッセーの連載を始める。「当麻」、「無常という事」、「平家物語」、「徒然草」、「西行」そして「実朝」の六編は後に『無常という事』のタイトルの下にまとめられる。
小林秀雄は、連作を通じて、「解釈を拒絶して動じない」歴史と「内面」の絶対性を語り、そこに解釈や分析が氾濫し、言葉が空疎になっている近代に対する批判を次のように込めている。
一種の哀調は、この作の叙事詩としての驚くべき純粋さから来るのであって、仏教思想という様なものから来るのではない。平家の作者達の厭人も厭世もない詩魂から見れば、当時の無常の思想の如きは、時代の果敢無い意匠に過ぎぬ。鎌倉の文化も風俗も手玉にとられ、人々はその頃の風俗のままに諸元素の様な変わらぬ強い或るものに還元され、自然のうちに織り込まれ、僕らを差招き、真実な回想とはどういうものかと教えている。
上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。
小林秀雄がこの執筆を通じて獲得した「のっぴきならぬ人間の相しか視れぬし、動じない美しさしか視れぬ」という態度は、戦後にも、貫かれる。敗戦とGHQの占領政策によって、既存の道徳観は覆され、新たな道徳観が流入し、「アプレ・ゲール」が登場している。「アプレ・ゲール(après-guerre)」は、フランス語で、戦後を意味し、本来、第一次世界大戦後の文化運動を指したけれども、日本では第二次世界大戦後の世代や文化をそう呼び、芸術運動の用語として使われ、後に、反社会的な行動をとる若者たちに対する蔑称となる。
こういった社会的・時代的背景の中、一九四九年、講演嫌いだった批評家が『私の人生観』の中で示す倫理は時代の潮流とは次のように異なっている。
思想が混乱して、誰も彼もが迷っていると言われます。そういう時には、又、人間らしからぬ行為が合理的な実践力と見えたり、簡単すぎる観念が、信念を語る様に思われたりする。けれども、ジャアナリズムを過信しますまい。ジャアナリズムは、度々現実の文化に巧まれた一種の戯量である。思想のモデルを決して外部に求めまいと自分自身に誓った人、平和という様な空漠たる観念の為に働くのではない、働く事が平和なのであり、働く工夫から生きた平和の思想が生まれるのであると確信した人、そういう風に働いてみて、自分の精通している道こそ最も困難な道だと悟った人、そういう人々は隠れてはいるが至る処にいるに違いない。私はそれを信じます。
戦後の作品であるにもかかわらず、その主張は戦前の『ドストエフスキイの生活』や戦中の『無常という事』の延長線上にある。「今日の様な批評時代になりますと、人々は自分の思い出さえ、批評意識によって、滅茶滅茶にしているのであります。戦に破れた事が、うまく思い出せないのである。その代り、過去の批判だとか清算だとかいう事が、盛んに言われる。これは思い出す事ではない。批判とか清算とかの名の下に、要するに過去に別様であり得たであろうという風に過去を扱っているのです。凡庸な歴史家なみに掛け替えのなかった過去を玩弄するのである。戦の日の自分は、今日の平和時の同じ自分だ。二度と生きている事は、決して出来ぬ命の持続がある筈である」。戦争、さらにその後の混乱によっても揺るがない「内面」を獲得し、それを極限することが望ましい。これが小林秀雄の倫理である。
小林秀雄の目指す社会や時代にも揺るがない自意識がいかなるものであるかは『近代絵画』(一六五四)が最も明確に伝えている。「ボードレール」、「モネ」、「セザンヌ」、「ゴッホ」、「ゴーガン」、「ルノワール」、「ドガ」、そして「ピカソ」の八編が収録されているが、この選択に彼の問題意識が表われている。小林秀雄がヨハネス・フェルメールやマックス・エルンストを論じる姿を想像できない。パブロ・ピカソを評価していても、実質的に、「青の時代」に限定されている。「わからない、言葉にならない」ピカソの絵は「狂人にも子供にも大変遠い、好奇心と想像力の豊かな意識家の心の鍵だ」と率直に告げている。「昔は、絵というものは一歩一歩完成の方に進んだものだ。だが私の場合は、絵は破壊の総計だ。私は描き、それから破壊する。しかし究極には何も失われていない。私が取り去った赤の色はどこか他の所で現われる」(パブロ・ピカソ)。小林秀雄はレンブラント・ファン・レインやディエゴ・ベラスケスといった一七世紀の絵画から語り始める。ウージェーヌ・ドラクロアからエドゥワール・マネに至る絵画の色彩表現を中心に近代絵画の発展と、絵画に見られる一九世紀ロマン主義の思想や文学における近代の意識を平行して論じている。
彼はポール・セザンヌについて「自然とは感覚の事だ、と彼は言う。そして感覚とは、彼のその実現を迫って止まぬものなのである」と書いている。「当方と相手との間の認識関係」があり、「その関係の一様態としての客観主義という様なものも、無論、彼に無意味だった様である」。「自然の像を実現する困難を語る、彼の様子には、自然が彼の生存の構造と化しているという様な趣が見える」と結論を導き出す。セザンヌは、一八六三年に反アカデミーの目的で開催された「落選展」に展示されている。オーギュスト・ルノアールについて、「美しいものは、当り前である。健康が当り前な様なものだ。彼の美学は、この一と筋につながる」と言い、「ゴッホは、表現派の開祖であるという様なことが言われるが、彼の絵は、激する主題の吐露というより寧ろ逆にその抑制が、絵の真のスタイルを成している様に思われる」。また、ポール・ゴーガンは「印象派の感覚主義に対する嫌悪から、思想とか想像力とかの力を強調したが、彼の絵は結局のところは決して文学的ではない」。その上で、こうした近代絵画は、エドガー・ドガがそうであったように、写真や映画といった新しいメディアの勃興にも刺激され、度色彩や形をめぐって発展していった結果、造形的な方向に傾いていくと小林秀雄は述べている。近代絵画は既存のメインストリームからではなく、アウトサイダーたちがメディア・ミックスを伴いながら、スリップして形成された流れというわけだ。
 スリップストリームとしての近代絵画を考察しつつ、ボードレール論を冒頭に置いているように、絵画におけるダンディズムを語ることが彼の狙いである。クロード・モネから始まりパブロ・ピカソの「青の時代」に至る時期は、ダンディズムが生まれ、そして消えていった時代に適合するのであり、シャルル・ボードレールこそ、『現代生活の中の画家』において、ダンディズムについて最も鋭く論じていた作家だからである。
ダンディズムの対立項はスノビズムであり、小林秀雄が批判し続けたのはそれである。スノッブは、鈴木道彦の『プルーストを読む』によると、「一つの階層、サロン、グループに受け入れられ、そこに溶けこむことを求めながら、その環境から閉め出されている者たちに対するけちな優越感にひたる人々」である。「意匠」を後ろ盾にしている作家や特定の歴史観に基づいて歴史を裁断する思想家はスノッブ以外の何者でもない。封建制がまだ残っている一九世紀では新興のブルジョアジーがスノッブの中心だったが、大衆社会に突入した二〇世紀になると、誰もが、程度の差こそあれ、スノビズムに染まっていく。
小林秀雄はそういったスノビズムの寛延に対しダンディズムの必要性を語る。かの稀有な象徴派の詩人の『現代生活の中の画家』によると、ダンディは精神主義や禁欲主義と境界を接した「自己崇拝の一種」であり、「独創性を身につけたいという熱烈な熱狂」であって、「民主制がまだ全能ではなく、貴族制がまだ部分的にしか動揺し堕落してはいないような、過渡期にあらわれ」、「デカダンス頽廃期における英雄主義の最後の輝き」である。近代日本は欧米へのキャッチ・アップというスノビズムに支配されてきたのであり、小林秀雄はダンディズムによってそれを批判する。
パブロ・ピカソの「青の時代」を考察する前に、近代社会における芸術家の孤独について語っている。一九世紀に始まる産業革命は「職人の手仕事を合理化し、組織化」し、二〇世紀に突入すると、「心の堕落」が始まる。精神や内面の問題を考えるのは、もはやロマン主義の遺産を受け継ぐ芸術家だけになってしまい、そのため、彼らは孤立化せざるを得ない。
絵を描くという手仕事を、合理化したり組織化したりすることは出来ない。近代画家達の頭脳に、どんな革新的な観念が生じようと、手仕事の方で、直ちにこれに応ずるというものではない。(略)彼等が歩いたのは職人の手仕事を新しく意識化する道であった。(略)習慣的な模倣による職人の無意識な仕事に、強く意識された自己表現を持ち込もうとする努力であった。彼等は、これに、彼等の社会的孤立と不幸を賭した。
小林秀雄が芸術家たちに見ているのはこういったダンディとしての生き方である。彼の変化にも揺るがない強い「内面」はダンディにほかならない。
小林秀雄は、生涯を通じて、ダンディズムを語り、実践し続けている。『ドストエフスキイの生活』において、「ドストエフスキイという人物はどういう人物であったかを簡単に知りたい読者は、僕の本に失望するだろうと思う。僕は解説を書いたのではなく、デッサンを書いたのだから」と言っている通り、彼の描き出すロシアの文豪はダンディである。小説家の中で、最も熱心にとりくんだのはフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーであるけれども、東大仏文科出身者がドストエフスキーを論じるというのは、当時の言論界では、いささか唐突と感じられている。アンドレ・ジッドの間違いではないのかという揶揄さえあったほどだ。そんな周囲の声にも、小林秀雄はダンディに振舞っている。また、『無常という事』で扱っている中世はしたたかな時代であるけれども、彼の記す兼好法師も、西行も、実朝もあまりに自意識過剰であり、ダンディとして生きている。
さらに、戦争に対してもダンディズムを次のように語る。
国民は黙って事変に処した。黙って処したという事が事変の特色である、と僕は嘗つて書いた事がある。今でもそう思っている。事に当って適確有効に処している国民の智慧は、未だ新しい思想表現をとるに至っていないのである。何故かというと、そういう智慧は、事変の新しさ、困難さに全身を以て即していて、思い附きの表現などとる暇がないからだ。この智慧の現代の諸風景のうちに嗅ぎ分ける仕事が、批評家としての僕には快い。あとは皆詰らぬ。
(『疑惑U』)
戦が始まった以上、何時銃を取らねばならぬかわからぬ、その時が来たら自分は喜んで祖国の為に銃を取るだろう、而も、文学は飽く迄も平和の仕事ならば、文学者として銃を取るとは無意味な事である。戦うのは兵隊の身分として戦うのだ。銃を取る時が来たらさっさと文学など廃業してしまえばよいではないか。簡単明瞭な物の道理である。
(『文学と自分』)
大切なのは事変が新しいものを外からもたらした事ではない。既に日本人の裡にあった美点や弱点を強い光の下に照らし出した事にある。(略)
事変は、日本を見舞った危機ではない。寧ろ歓迎すべき試練である。僕は非常時という言葉の濫用を好まぬ。困難な事態を、試練と受け取るか災難と受け取るかが、個人の生活でも一生の別れ道となろう。
(『事変と文学』)
 
「戦争中の私は、軍国主義に対して無抵抗であった。残念ながら、積極的に抵抗する勇気はなく、適当に迎合し、或いは逃避していたと云わざるを得ない。(略)だから、あまり大きな顔をして戦争中の事を批判する資格はない」(黒澤明『蝦蟇の油』)。
けれども、貴族制が完全に後退した二〇世紀において、スノビズムがあまりに凡庸であったとしても、ダンディズムは陳腐なアナクロニズムにすぎない。そういったダンディズムを目指すこと自体スノビズムであろう。偉大な批評家は、そのため、現代のダンディズムを提唱している。それはオルタナティブとしてのパンクである。パンクは騒々しく、暴力的で、粗野なサウンドとルックスのポップ・ミュージックを指すのではない。それは、ハリー・サムラルの『ロックのパイオニア』によると、ラモーンズのように、「意識的にロックからすべての虚飾を剥ぎとり、基本に立ち返った新しいロックの形式を生み出そうとした」現象であり、「洗練されない“生”のままのフィーリングや“自由”をロックが表現することが可能だと証明した」。行き詰まりを見せていた七〇年代前半のポップ・ミュージック・シーンに、ニューヨーク・ドールズが登場したとき、エルヴィス・プレスリーやビートルズに継ぐ第三の革命が始まる。
Trash, go pick it up, take them lights
away
Trash, go pick it up, don't take your life
away
Trash, go pick it up, the doctor take my
knife away
And please don't you ask me if I love you
If you don't know what I'm doing
What you know is,
Trash, go pick it up, take them lights
away
Trash, go pick it up, don't throw your
love away
Trash, go pick it up, the doctor take my
knife away
Adn please don't you ask me if I love you
Cause I don't know what I do
What I know is,
Trash, pick it up, take them lights away
Trash, go pick it up, don't take my knife
away
Trash, go pick it up, the doctor take them
all away
And please don't you ask me if I love you
Cause I don't know if I do
I want to wipe it out here with you
And take a lover's sleep with you
I'm gonna talk alone with you
I'm gonna talk and be with you
But I just don't know if I do
I just don't know if I do
Ah how do you call your lover boy?
Trash, pick it up, take them lights away
Trash, go pick it up, go put that knife
away
Trash, go pick it up, don't give your life
away
Trash, pick it up, don't throw your love
away
Trash, pick it up, don't take my knife
away
Trash, pick it up, the doctor take them
all away
Trash, pick it up, don't take my knife
away
Oh trash, wow, wow, my sweet baby, wow,
wow
Oh, oh, trash, wow, wow, you're the one
Tttttttttrash, ...
Tttttttttrash, ...
 (The 
誰にも負けないロックへの愛は感じられるものの、尻をまる出しにしたり、拳銃のホルスターを股間につけていたりするだけでなく、騒々しいだけのサウンド、耳障りなヴォーカル。安直な歌詞、だらしないルックス、ひきつけを起こしたようなステージ・アクトとみすぼらしいその史上最低のバンド自身は無残な失敗に終わるが、彼らの撒き散らした種子を新たな音楽を捜し求めていたミュージシャンたちが丹念に拾い集め、パンクという大輪の花を咲かせる。リトル・リチャードやジェリー・リー・ルイスの時代に戻ることができないと是認しつつ、同時代的な「"生”のフィーリングや”自由”」を見出すこころみである。「あるいは、こうもいえよう−−哲学は一度ある思想に『感染』するや、もうそれを取消すことはできないのであって、それ以上の思想を発明することによってそれから癒えるほかないのだ、と。今日、パルメニデスをなつかしみ、自己意識の発生以前にそうであったような〈われわれと存在との関係〉をわれわれに回復しようと望む哲学者ですら、当の原初的存在論についての感じ方や好みをまさしく自己意識に負っているのだ。主観性とは、それを超えようとしても、またそれを超えようとすればとりわけ、その手前に引き返すことができないような思想の一つなのである」(モーリス・メルロ=ポンティ『シーニュ』)。パンクは今日のポップ・ミュージックの一ジャンルではなく、それを構成している。「洗練されない“生”のままのフィーリングや“自由”」というパンクの視点から見ると、小林秀雄の批評の主張は、驚くほど、すべての作品において一貫している。
Hey ho, let's go Hey ho, let's
go Hey ho, let's go Hey ho, let's go
They're forming in straight
line They're going through a tight wind
The kids are losing their minds
The Blitzkrieg Bop
They're piling in the back seat
They're generating steam heat
Pulsating to the back beat The
Blitzkrieg Bop
Hey ho, let's go Shoot'em in
the back now What they want, I don't know
They're all reved up and ready
to go
They're forming in straight
line They're going through a tight wind
The kids are losing their minds
The Blitzkrieg Bop
They're piling in the back seat
They're generating steam heat
Pulsating to the back beat The
Blitzkrieg Bop
Hey ho, let's go Shoot'em in
the back now
What they want, I don't know
They're all reved up and ready to go
They're forming in straight
line They're going through a tight wind
The kids are losing their minds
The Blitzkrieg Bop
They're piling in the back seat
They're generating steam heat
Pulsating to the back beat The
Blitzkrieg Bop
Hey ho, let's go Hey ho, let's
go
Hey ho, let's go Hey ho, let's
go
(The Ramones “Blitzkrieg Bop”)
 小林秀雄の文体はフランスのモラリストから影響を受けている。その叙述スタイルは、スコラ哲学的な形式主義者や懐疑主義者を批判するために、ミシェル・ド・モンテーニュが選んだエッセーである。彼は具体的な現象や経験を観察し、絶え間ない自己省察を通じて、普遍的な生の姿を追及する。持続的と言うよりも、瞬間的であるエッセーの内省による時間・空間に関する認識は客観秩序の存在をア・プリオリには認めない。エッセーは、本質的には、告白であるが、それがルソー以後の告白と異なっているのは、物語的要素、すなわち順序だった構成に欠けている点である。告白は知的であり、理論的領域から関心は離れない。けれども、それが体現する理論は観念ではなく、具体的・日常的世界へと還元されていく。小林秀雄は、彼の前にあったマルクス主義を筆頭に理論志向の文芸批評の文体と用語が生硬で、日常言語から遠く離れていると意識し、そのパンクな文体を選択している。モラリストと違い、時々、レトロな文体も採用していたとしても、「明治以来、批評の文体は漢文くずしの文語文から口語文に推移し、この変化は概して進歩と見倣され、大正末期にはほぼ完成したと言ってよいのですが、青年期の小林氏は意識的にこの風潮にさからって、漢字を思いきってたくさん使った文語的表現に近い独自の散文をつくりあげ、それによって、一種の詩的評伝ともいうべき、特異の表現をつくりあげています」(中村光夫『小林秀雄初期文芸論集』「解説」)。批評は自らの生が希求する明晰な思考を紡ぎ出す姿勢にほかならない。
 小林秀雄は、対象を用いて、自己を語る。この対象はつねに挑戦的である。彼の論理展開は文脈や文章のリズムによって支えられている。論理のつながりを軽視して、いささか唐突な主張を結論的に提示することも少なくない。彼にとって、論理はペダンティックすぎる。エーリッヒ・アウエルバッハが『ミメーシス』においてモンテーニュについて言及しているように、エッセーの中で、小林秀雄は二人いる。それは著者としての自己と対象としての自己であり、両方に小林秀雄はかかわっている。「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」(『様々なる意匠)であり、「批評するとは自己を語る事である。他人の作品をダシにして自己を語る事である」(『アシルと亀の子U』)。論理の進行は何度も中断され、突然、再開される。この唐突さが彼の問題を顕在化させる機能を果たしている。意表をついたり、飛躍したりする彼の作品の構造が精緻で論理的であることは、「分析」してみればすぐわかるが、その行為は彼には最も嫌悪するものでしかない。順序が乱雑であったり、主張が飛躍したりしていると読者は彼に噛みついてはならない。彼の批評は読者が協力しなければ成り立たない。読者を信用しているのだ。読者は小林秀雄の企てを推察することを期待されている。彼の理論の動きと同時に読者は洞察力を発揮していなければならない。自己省察を深化させようという細かな思考作業を意図している。けれども、表現しようとする自意識が過剰であるため、理論的論文の形態に収まりきることができず、エッセーという形式を必要とする。小林秀雄は彼の作品に共感するものは誰もが自分と同じような経験をしているだろうと考えている。「『子を見る親に如かず』という。わかる親もあれば、わからぬ親もあるという風に考えれば一向につまらないが、親が子をどういう風に見るかと思えば面白い。私という人間を一番理解しているのは、母親だと信じている。母親が一番私を愛しているからだ。愛しているから私の性格を分析している事が無用なのだ。私の行動が辿れない事を少しも悲しまない。悲しまないから決してあやまたない。私という子供は『ああいう奴だ』と思っているのである。世にこれ程見事な理解というものは考えられない」(小林秀雄『批評家失格』)。「みたばかりの死に芒然として、卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません」(中原中也『死別の翌日』)。アカデミックな論文には、確かに、そのような体験は味わえないだろう。小林秀雄は思考を構築する手続きを省略し、それを暗示させようとする。彼は論理的な順序ではなく、日常的に親しいという程度とでも言うべき関係を判断として提示する。読者は文章と文章の間に欠けているのではないかと推測される文章を、古典文献学者のように、補わなければならない。小林秀雄は読者の関心をこうした緊張によって惹きつける。同じ主張を繰り返したかと思うと、新しい視点や新たなイメージを振り向ける。作品構造は求心的と言うよりも、拡散している。彼の作品は理論的と呼ぶべきではなく、日常会話的である。告白は独白とは違い、自分と同時に誰かに話しかける行為である。彼は、そのとき、自己を発見する。小林秀雄は、『ドストエフスキイの生活』の序文「歴史について」において、「『現代ロシヤの混乱』の鳥瞰は、そのまま彼自身の精神の鳥瞰に他ならなかった。インテリゲンチャの不安はそのまま彼自身の懐疑であった。彼はこれを観察する地点も、これを整頓する支柱も求めなかった、ただ自らこの嵐の中に飛び込む事によって自他共に救われようとした処に、彼の思想の全骨格がある」と書いているが、これはロシアの文豪についてよりも、彼自身の告白である。
 小林秀雄はいかなる作品にも自己を見出す。彼が従うものはただ自己だけである。特定のグループのルールに従属するなどできやしない。自己は作品によってゆり動かされ、そこから力を得るが、そこにとどまることなく、ほかの作品に移り変わる。彼の批評は作品の注釈の枠を破っている。批評を書く際に、読んだ作品だけでなく、自分自身の体験や人から聞いた話、日常生活の出来事もつけ加える。気鋭の文芸批評家小林秀雄は、一九三六年、『読売新聞』に「作家の顔」を発表したのをきっかけに、文壇の長老正宗白鳥との間で「思想と実生活論争」を繰り広げている。実生活の真相が思想に反映すると言う正宗白鳥に対し、小林秀雄は、実生活を離れた思想はないが、実生活に犠牲を払わない思想は人間社会では有効ではないと主張している。学問的手法や論理的発展に束縛されず、具体的・現実的事象や出来事を手放さない。抽象的で、ときとして、虚しい知識によって窒息することを実際に起こった出来事や事実は防ぐ。小林秀雄は「様々なる意匠」によって支配され、自己を見失わないように細心の注意を払う。彼の読解手法は、アカデミックな意味では、不当であるとは言えるかもしれない。彼もそれは自覚している。「常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。事が公になって、一とたび、社会を批判し、政治を論じ、文化を語るとなると、同じ人間の人相が一変し、忽ち、計算機に類似してくるのは、どうした事であろうか」(小林秀雄『常識』)。
エッセーの持つ生成パターンが体現する歴史は秩序立てられていない。時間や空間に関するエッセストの感覚は物語的構造を窮屈に感ずる。内向的であり、百科全書を編集できる構成力を必要としない。けれども、いかなる人間でも倫理について考えるのに十分な素材を持っているのであり、自己吟味は倫理的存在としての人間を対象とすることを可能にする唯一の方法である。「方向を転換させよう。人は様々な可能性を抱いてこの世に生れて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、しかし彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実である。この事実を換言すれば、人は種々な真実を発見する事は出来るが、発見した真実をすべて所有する事は出来ない、或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循る真実は唯一あるのみだという事である。雲が雨を作り雨が雲を作るように、環境は人を作り人は環境を作る、かく言わば弁証法的に統一された事実に、世のいわゆる宿命の真の意味があるとすれば、血球と共に循る一真実とはその人の宿命の異名である。或る人の真の性格といい、芸術家の独創性といいまた異なったものを指すのではないのである。この人間存在の厳然たる真実は、あらゆる最上芸術家は身をもって制作するという単純な強力な一理由によって、彼の作品に移入され、彼の作品の性格を拵えている」(『様々なる意匠』)。どんな生でも無数の可能性のほんの一つである。それは任意であるが、同時に、ほかにありえなかった以上、「宿命」と言わざるを得ない。一つの全体性の内包されたその「宿命」の下にある人間の自己観察は間違っているとは言えないだろう。学問的知識はこれをねじ曲げてしまうだけである。「宿命」としての自己を倫理の出発点としなければならない。小林秀雄の観点と内容は任意であるにしても、「宿命」である自己をめぐる記述である。「宿命」を引き受け、その中に身を置いて、そこで動き出す自意識をたどって、自己を探り出す。数多くの物事について語りながら、一つのものは別のものへと移動し、「宿命」となる。たとえ断片的であったとしても、小林秀雄の歴史意識は統一性を保持している。歴史も自己のフィルターを通して意識される。彼には「宿命」という統一性はあっても、隠遁的・瞑想的な自己と客観的秩序との一致はない。「宿命」は窮屈な態度ではなく、他者たちの記憶に定着されることによって決定される。他者はある人生の下でしか生きられなかった「私」の可能性をあれこれと想像する。「宿命」はその他者の想像する可能性も含んでいる。小林秀雄は、逆説的に、人間的なるものに関してそれがあたかも歴史的事実であるかのように語ることも少なくない。逆説は自意識を高めていく。高みに上昇したかと思うと、それを瞬間的に転落させる。「自意識の球体」からの脱出をこのように企てる。逆説は「宿命」の自覚による自意識の休止である。自意識は否定的自己認識をもたらす。小林秀雄は自意識の危機を敏感に感じ、むしろ、過剰な自意識を「自意識の球体」を脱出する創造的エネルギーに変換する。自意識の力は厄介であるが、それを創造的エネルギーに変換できるものが「天才」と呼ぶにふさわしい。若くしてデビューした作家の多くが実質的に一作か二作で文学的寿命を終えてしまうのは、彼らが自意識に対する恐怖心を描き、その自意識への対処に行き詰まってしまうからである。歴史的変化は自意識の危機を誘発する。歴史の必然は外的にあるのではなく、内的に自己に働きかける。歴史は自意識と不可分の関係にあり、自意識の根源的な意味を持っている。それは「自然」としての自意識の継承である。歴史は物語でも、年代記述でも、プログラムでも、黙示録でも、自由に関する意識の発展でもない。隙間だらけのエッセーは歴史と称して神秘化=脱神秘化の過程を時間的連続として描くことはない。
アカデミックな学問的手法は形式にだけとらわれて、自己を単純化・体系化してしまい、そのあるがままの姿を見失わせてしまう。小林秀雄は学問的な意義を持つ結論を放棄して、自己にとどまり続け、作品を終わらせる。伝統的道徳哲学の体系には嫌悪しか覚えない。彼は対象の全認識を記述することは諦め、自己観察の試みから逸脱しないことによってある種の厳密さを維持している。学問的に論じられる自己はいずれも自己の一部にすぎず、その方法論によって扱われた自己は全体性とうまく合致しない。自己は認識論的対象だけではなく、倫理的・実践的対象であり、自己認識以上の学問など彼にはない。自分の内的経験や実際的生活を対象にあてはめ、すべての事象は、自分の体験を一度通ってから、批評される資格がある。歴史的・社会的認識は自己の経験を顧みることが初動原理である。抽象的な方法論や生硬で難解な用語は倫理と認識を切り離してしまう。小林秀雄は抽象化・専門化に対して具体的・日常的方向を志向し、そんな党派のためにも批評を書かない。また、自己を認識するには学問的知識だけでは不可能であるから、彼は「分析」に無関心と無知を装う。
作家にとって作品とは彼の生活理論の結果である。しかも不完全な結果である、だが批評家にとって作品とは、その作家の生活理論の唯一の原因である。しかも完全な原因である。(略)又、社会のある生産様式がある作品を生むと見る時、その批評家にとって作品とは或る社会学的概念の結果である。ここに社会的批評と芸術的批評との間の越え難い溝があるのである。
(『アシルと亀の子U』)
凡そ作品というものの唯一の興味はその出来栄えにある。(略)作品の出来栄えを最大の関心事としない文士は、如何なる社会状態に於いても、文士たる存在理由はないのである。
(『アシルと亀の子X』)
人は様々な思想に準じて様々に文学作品を解釈するが、先ず無私な文学的イリュウジョンを一様に強いるものは、作品そのものの力だ。それはこの力を分析しようとかかるから、曖昧に思われるだけの話で、事実私達はこの力を感じて疑わないし、この力によって鑑賞という事実が成り立っているのだ。(略)ここに故意に問題を捜り出そうという処に近代批評の方法論化した弱みがあると考えるのは乱暴であろうか。
(『文芸時評』)
小林秀雄は近代特有の発展的思想形成を事後的に破棄するべく、発表した後も、しばしば作品を書き改める。彼は作品の中に自らの探し求めるものを発見しているにすぎない。小林秀雄は古典を読む際、その作品を生み出した歴史的・社会的状況や個人的境遇、ものの考え方に身を置くことはしない。彼は作品を吟味し、「出来」という名の孤立したある領域に囲いこむ。それは自己という統一像である。どんなに拡散した記述をとりながらも、彼はこの統一性を獲得する。自己を追及する方法は自己を所有することへと導かれる。彼は多様な声に耳を傾けながらも、やはり一つの自己を維持し続ける。自己が一つであることは彼にとって真実である。改稿はそういった自己認識がもたらしている。
文体がパンクを体現しているのみならず、『感想』や『本居宣長』といった小林秀雄の晩年の作品群にはパンクへの志向が明確に見られる。母親の死後、何度か霊的な体験をしたことをモチーフにした『感想』はスチーム・パンクにほかならない。この『文学界』グループの代表者は、座談会『近代の超克』において、「歴史人や社会人を仮面的なものと見て、純粋な知覚の分析から、まっすぐに形而上学を作って行くやり方。ベルグソンは一時流行したが、もう一度真剣に読まれる時が、我が国で屹度来ると考えています。果敢ない夢だね。我々近代人が頭に一切詰め込んでいる実に厖大な歴史の図式、地図、そういうようなものは或る実在に達しようとする努力の側から観ると、破り捨てねばならぬ悪魔だね」と言っているが、『感想』はそのアンリ・ベルグソンを論じた作品である。とは言っても、『感想』は『新潮』一九五八年五月号から連載が始まったものの、一九六三年六月号の第五十六回終了をもって連載が中断される。
小林秀雄は『感想』を「純粋経験」を起点にして次のように展開している。
体験したもの感得したものは、言葉では言い難いものだ。という事は、事物を正直に経験するとは、通常の言葉が、これに衝突して死ぬという意識を持つ事に他ならず、だからこそ、詩人は、一ったん言葉を、生ま生ましい経験のうちに解消し、其処から、新たに言葉を発明する事を強いられる。ベルグソンが、自ら問うたところは、こういうやり方は、果して詩人の特権であるか、それとも詩人の特権と見られるほど深く世人の眼に覆われて了った当り前な人生の真相なのであるか、という事であった。
小林秀雄がこのフランスの哲学者に見たものは近代によって失われた生の感覚である。こうした視点から、ベルグソンをめぐる読解が進んでいく。秩序化され、主観と客観に区別される前の直接的な経験をベルグソンは「純粋経験」と呼んでいるが、小林秀雄がこの作品を通して「洗練されない“生”のままのフィーリングや“自由”」である純粋経験をどう言葉にするかを追求していく。ベルグソンを援用しながら、心身の関係を語って、物の経験をたどり、その道を逆に戻って見せる。ほかには、「純粋持続」や「エラン・ヴィタル」、「直観」といったベルグソン特有の用語の意味を明らかにしたり、近代科学と哲学に関するベルグソンの考えを説明したりもしている。
ベルグソンの二元論を解き明かしながら、小林秀雄は『感想』を次のように中断する。
ここで、又、ベルグソンの二元的な物の見方の意味を取り上げるのは、彼が、哲学者として、科学をどう考えていたかという問題に緊密に繋がっているからだ。彼が、哲学とは「」だ、意識の根底から衝動によって外に推戻されるエランだ、という言葉で、現したいのは、私達の過去から現在に向う経験の持続、言わば生きられる時間の厚みなのであって、対立する関係にあるものとしての、この厚みの診断が、彼にとっては哲学の仕事だと言える。従って、彼の仕事に於ける科学の位置は、そこから自然と決定される。哲学と科学とは、意識経験の展開する方向が異なる。意識の外界に向う方向が辿られれば、必然的に科学が結実するのだが、哲学は、それが経験の全部ではない、逆な方向に向う経験も同時に存するという事実を容認するだけの事で、それ以上の何を仮定するものではない。科学の上に立って、科学の特殊な諸領域を綜合した知識を求める仕事ではない。哲学に科学を否定する力がある筈もなし、これと矛盾する性質もあってはならない。ベルグソンの仕事は、この経験の直観に基づくのであり、彼の世界像の軸はそこにある。「哲学はユニテに到着するのではない。ユニテから身を起すのだ」。
こうして中断された『感想』の問題は、『本居宣長』でさらに詳細に考えられていく。『本居宣長』は小林秀雄の批評の集大成であり、彼は宣長をパンクとして読んでいる。虚飾を剥ぎとり、荒々しい単純さと率直さに満ち、洗練されない「生」の言葉の感触を表現する理論家である。小林秀雄は「正確さ」を求めるアカデミズムのエスタブリッシュメントになることを拒否したのであり、彼の批評はパンクと呼ぶにふさわしい。それが彼の批評の集大成である。
小林秀雄は、芸術論から始まり、美学を経て、言語論へと至るが、その際、宣長の「古学」の成立過程、『源氏物語』読解、「歌」論そして『古事記』注釈をたどっていく。『源氏物語』に関する宣長の読みを語る頃から、実質的な主張が始まる。彼によれば、宣長が紫式部に見たのは「『物のあわれ』という王朝情趣の描写家ではなく、『物のあわれを知る道』を語った思想家であった」。「物のあわれ」ではなく、「物のあわれを知る道」が芸術の本質であると紫式部は示している。
宣長は、「動く」「思う」「知る」「感ずる」という言葉を、その時その時で、同じ意味合いに使う。「物の哀をしる」とは、「自然としのびぬ所より感ずる」事だ。「世にあらゆる事にみなそれぞれの物の哀はある」が、そのどれを選ぶかは、私の自由だというような事はありはしない。私が「哀」を求めて、それを得るのではない。むしろ私が「哀」に捕えられ、「哀」をしらされるのだ。事に触れて心が動くとは、私は全く受身で、無力で、私を超えた力の言うがままになる事だ。
美は人と「超えた力」との絶対的な関係によって生じるのであって、芸術表現はそれをきっかけにする。
誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つのである。例えば悲しみを絶え難いと思うのも、裏を返せば、これに堪えたい、その「カタチ」を見定めたいと願っている事だとも言えよう。捕えどころのない悲しみの嵐が、おのずから文ある声の「カタチ」となって捕えられる。宣長に言わせれば、この「カタチ」は、悲しみが己を導くその「シカタ」を語る。更に言えば、「シカタ」しか語らぬ純粋な表現である。
 既存の整理された言語体系では「捕えどころのない」感情を覚えた時に、心が動き、「文ある声の『カタチ』となって捕えられる」。こういった認識は、近代を生きる者にはわかりにくいが、神代の人々にとっては自然なことである。
 神代の人々が、言語とは何かという問題で、頭を悩ましたわけではなかった。ただ言語を信じ、言語活動のうちに素直に生きていたのだが、言語はそういう人々にしか見せない顔を見せていたと、そう宣長は考えている。言語組織に関する分析的な考えでは、到底摑む事の出来ぬ言語の生態が、全的に掴まえれている。要するに「神代紀」から引用しながら、宣長が願い描いたのは、磐戸の中の日ノ神と外の神々との間を取り結んでいる「言霊」の「幸わう国」であった、と言っていいだろう。
宣長が神代の人間の「古語」に見たのは体系化される前の言葉の状態である。秩序化された言葉は人の心を縛る。そういった拘束から「自由」に言葉を感受することを体系化されてしまった言語を用いて説明するのは困難である。「やまとごころ」が日本古来のものであり、「漢心」は外来思想だということを意味しない。小林秀雄は、一定の秩序に基づいて世界を認識してきた結果、失ったものは何か問っているのであって、復古主義を主張しているわけではない。「意識的に」批評から「すべての虚飾を剥ぎとり、基本に立ち返った新しい」批評の「形式を生み出そうとした」のであり、「洗練されない“生”のままのフィーリングや“自由”」を批評で「表現することが可能だということを証明」しようしたのである。
小林秀雄は宣長に自分自身を重ね合わせて、論を展開している。宣長は、上田秋成のような当時の学者から、手法が非学者的であり、説得力を欠いていると非難されている。ところが、宣長はそういった批判を無視し、概念を定義せず、ただ「神代紀をよく見よ」と繰り返すだけである。けれども、小林秀雄によると、「秋成の論難の正確さなど、今更、とやかく言うことではないのだ。問題は、宣長の側の、秋成を憤慨させた徹底的な拒否にある。何故そこが問題かというと、この拒否のないところに、彼の学問も亦ないからである」。これは小林秀雄自身にも言えることである。小林秀雄の宣長論も、実証性を重視するアカデミズムから見れば、異論も多いことだろう。しかし、小林秀雄はそれに対して「徹底的に拒否」するし、またそこに彼の批評がある。
この二作のみならず、彼が愛するアルチュール・ランボーやビンセント・ヴァン・ゴッホ、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはたんにエキセントリックなボヘミアンというだけでなく、シンプルさに基づいたパンクな芸術家である。高度に洗練化されたものではなく、既存の美意識に挑戦する率直なエネルギーを追求するものを好む。また、宣長にしても、当時主流の学問は漢学であり、国学は歴史の浅い傍流にすぎなかったのであり、パンクな学者である。それどころか、小林秀雄は西洋近代合理主義の根源と見なされているルネ・デカルトさえパンクだと公言してはばからない。彼の『常識について』によれば、ルネサンスという経済的力によって後押しされた時代に、スコラ的神学の代わりに登場した合理主義は現実主義に即しているのであり、合理的理性は人々に富や物質に執着するようにさせ、精神性を見失わせたのであって、デカルトはその精神性を復権しようとしたというのだ。デカルトが世界は精神と身体の延長からなっているという見解は、近代人の自意識がもたらす誤読にすぎない。「言ってみれば、この分裂があるからこそ、私達の真理探求の努力が生じていると信じてみよう。この確信が、いよいよ固まるとは、完全な善意の神というもう一つの秩序を暗黙のうちにせよ、許し、信じていなければ不可能な事ではないか。これが、神の存在の証明、少なくともその中心動機をなすものの一切である」。小林秀雄にとって、座談会『近代の超克』の中で、「要するに近代性の克服とは西洋近代性の克服が問題だ。日本の近代性の克服なんぞはわけはない」と発言しているように、近代はエスタブリッシュメントを意味する。彼の近代批判はエスタブリッシュメントへの違和感である。こうした小林秀雄の継承者としての吉本隆明の「自立」は「インディー(Indie)」と理解すべきだろう。
You've got a great car 
Yeah, what's wrong with it
today? 
I used to have one too 
Maybe you should come and have
a look 
I really like your hairdo 
I'm glad you like mine too 
I see we're looking pretty cool
So what do you do? 
Oh, you're waiting tables too? 
No I haven't heard your band 
Because you guys are pretty new
But if you love vegan food 
Come over to my work 
I'll have them look you
something that you'll really love 
Cuz I like you 
Yeah I like you 
And I feel so Bohemian like you
Wait
Who's that guy, just hangin at
your pad? 
He's looking kinda sad 
Oh, you broke up? 
That's too bad 
But I guess it's fair 
If he always pays the rent 
And he doesn't get all bent 
About sleeping on the couch
when I'm there 
Cuz I like you 
Yeah I like you 
And I'm feeling so bohemian 
I feel so bohemian like you 
And I want you 
Please
Just a casual thing 
Cuz I like you I like you I
like you 
Whoo-hoo-ooo
(The Dandy Warhols “Bohemian Like You”)
 小林秀雄が、最初に、本格的な批評を書いた対象はアルチュール・ランボーである。一九二六年に最初のランボー論を発表している。当時、ランボーを研究する企ては日本のアカデミズムでは許されていない。フランス文学の研究者であれば、とりあえずジャン・ラシーヌあたりを論じなければならない。けれども、彼はパンクだから、そんな慣習には従わない。
 中原中也の友人は、『地獄の一季節』を次のように訳している。
俺はありとあらゆる祭りを、勝利を、劇を創った。俺は新しい花を、新しい肉を、新しい葉を発明しようとも努めた。俺はこの世を絶した力も獲得したと信じた。扨て、俺は俺の想像と追憶とを葬らねばならない。芸術家の、話し手の一つの美しい栄光が消えて無くなるのだ。
 小林秀雄は粟津則夫や篠沢秀夫のように訳しはしない。「正確さ」など眼中にない。ランボーのパンク性を示すのだ。この翻訳でのフランスの詩人は、パティ・スミスやジョニー・ロットンといったパンク詩人の先行者である。「ランボオが破壊したのは芸術の一形式ではなかった。芸術そのものであった。この無類の冒険の遂行が無類の芸術を創った。私は彼の邪悪な天才が芸術を冒涜したとは言うまい。彼の生涯を聖化した彼の苦悩は、恐らく独特の形式で聖化したのである。あらゆる世紀の文学は、常に悲運の天才を押し流す傍流を生む。けだし環境の問題ではないのである。ある天才の魂は、傍流たらざるを得ない秘密を持っている。後世如何に好奇に満ちた批評家が彼の芸術を詮表しようと、その声は救世軍の太鼓のように消えて行くだろう。人々はランボオ集を読む。そして飽満した腹を抱えて永遠に繰り返すであろう。『しかし大詩人ではない』と」(小林秀雄『ランボオ』)。
『モオツアルト』(一九四六)でも、この姿勢は貫かれている。モーツアルトの人生をたどり、曲に言及しつつ、早熟でパンク名天才の孤独を書いている。「確かに、モオツアルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる(略)彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な重荷を引摺っていないだけだ。彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当り前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない」。かの天才は、下品で卑猥なことが大好きなスカトローグ、あるいは王侯貴族を庇護の下に芸術活動する時代と新興ブルジョアジーの経済力を背景にしてフリーの芸術家が可能になった時代の狭間に生きた音楽家である。器楽曲にしても、オペラにしても、落書きの多い譜面上の曲はシンプルにして、繊細で高度な芸術性を備えている。「モーツァルトという人物は、当時知られていたあらゆる音楽形式において、経理部長が社内メモを素早く処理するような手さばきでディヴェルティメントを仕上げることのできる、こちらがうれしくなってしまうほど頼もしい芸術家だったのです。しかし、ある意味では、それが彼の問題でありました。モーツァルトの作品には社内メモのようなものが多すぎます」(グレン・グールド『経理部長モーツァルト』)。
  
Er war ein Punker
Und er lebte in der großen
Stadt
Es war in Wien, war 
Wo er alles tat
Er hatte Schulden denn er trank
Doch ihn liebten alle Frauen
Und jede rief:
Come and rock me Amadeus 
Er war Superstar
Er war populär
Er war so exaltiert
Because er hatte Flair
Er war ein Virtuose
War ein Rockidol
Und alles rief:
Come and rock me Amadeus
Amadeus, Amadeus... 
Es war um 1780
Und es war in Wien
No plastic money for me
Die Banken gegen ihn
Woher die Schulden kamen
War wohl jedermann bekannt
Er war ein Mann der Frauen
Frauen liebten seinen Punk 
Er war Superstar
Er war populär
Er war so exaltiert
Because er hatte Flair
Er war ein Virtuose
War ein Rockidol
Und alles rief:
Come and rock me Amadeus
Amadeus, Amadeus... 
(Falco “Rock Me Amadeus”)
さらに、生きている間はわずか一枚しか売れなかっただけでなく、美術史上、最大のトラブル・メーカーの一人であるビンセント・ヴァン・ゴッホを手放しで評価する。小林秀雄は、一九五一年に発表した『ゴッホの手紙』において、発狂して自殺したこの画家に賛辞を惜しまない。全編を通して、感動を抑えきれない小林秀雄の姿が次のように伝わってくる。
 熟れ切った麦は、金か硫黄の線条の様に地面いっぱいに突き刺さり、それが傷口の様に稲妻形に裂けて、青磁色の草の緑に縁どられた小道の泥が、イングリッシュ・レッドというのか知らん、牛肉色に剥ぎ出ている。空は紺青だが、嵐を孕んで、落ちたら最後助からぬ強風に高鳴る海原の様だ。全管弦楽が鳴るかと思えば、突然、休止符が来て、鳥の群れが音もなく舞っており、旧約聖書の登場人物めいた影が、今、麦の穂の向うに消えた──僕が一枚の絵を鑑賞していたという事は、余り確かではない。寧ろ、僕は、或る一つの巨きな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる。
 小林秀雄は、ゴッホの手紙を引用しつつ、その人生と作品、先行する画家や同時代の画家との違いを描き、最初のパンク画家という称号を与える。「書き続けて行くにつれ、論評を加えようが為に務め思いめぐらしていた諸観念が、次第に崩れて行くのを覚えた事である。手紙の苦しい気分は、私の心を領し、批評的言辞は私を去ったのである。手紙の主の死期が近づくにつれ、私はもう所謂『述べて作らず』の方法より他にない事を悟った」。
 初期の小林秀雄は、挑戦的に、オルタナティブな作品を書いている。アフォリズム集『アシルと亀の子』シリーズは、そのタイトルも含めて、斬新である。これだけでなく、アヴァン・パンクとでも呼ぶべき作品を試している。
小説と批評というジャンルの分類を解体するものも少なからず発表している。『Xへの手紙』(一九三一)は架空の人物Xに宛てられた書簡スタイルの批評である。小林秀雄は自分自身に「俺」を使い、Xを「君」と呼び、友人に話しかけるように、書いている。順序立ててはいないものの、過去に経験した事件や出来事、今の文学・思想シーン、批評を含めた文学に関する自分の考えを率直に次のように告白している。
 俺は今も猶絶望に襲われた時、行手に自殺という言葉が現れるのを見る、そしてこの言葉が既に気恥しい晴着を纏っている事を確め、一種憂鬱な感動を覚える。そういう時だ、俺が誰でもいい誰かの腕が、誰かの一種の眼差しが欲しいとほんとうに思い始めるのは。
 俺が生きる為に必要なものはもう俺自身ではない、欲しいものはただ俺が俺自身を見失わない様に俺に話しかけてくれる人間と、俺の為に多少はきいてくれる人間だ。
 俺の興味をひく点はたった一つだ。それはこの世界が果たして人間の生活真情になるかならないかという点である。人間がこの世界を信ずるためにあるいは信じないために、何をこの世界に附加しているかという点だけだ。この世界を信ずるためにあるいは信じないために、どんな感情のシステムを必要としているかという点だけだ。
 母親は俺の言動の全くの不可解にもかかわらず、俺という男はああいう奴だという眼を一瞬も失った事はない。 
 人間世界では、どんなに正確な論理的表現も、厳密に言えば畢竟文体の問題に過ぎない。修辞学の問題に過ぎないのだ。簡単な言葉で言えば、科学を除いてすべての人間の思想は文学に過ぎぬ。現実から立ち登る朦朧たる可能性の煙に咽せ返るような様々な人の表情に過ぎない。
社会のあるがままの錯乱と矛盾とをそのまま受納する事に耐える個性を強い個性という。彼の眼と現実との間には、何等理論的媒介物はない。彼の個人的実践の場は社会よりも広くもなければ狭くもない。こういう精神の果てしない複雑の保持、これが本当の意味の孤独なのである。
 告白が日本に入ってきた際、作家たちはそれを私小説にしてしまったが、告白は、本来、『Xへの手紙』のような主観性が強く知的な作品を指す。発表された当時、これに続く作品は現われなかったけれども、戦後になって登場したいわゆる観念的な小説群には、むしろ、この作品の影がある。『Xへの手紙』は先駆的な小説だったのである。
 他にも、ウィリアム・シェークスピアの『ハムレット』に出てくるオフィーリアである。この作品はハムレットに宛てた遺書として書かれた『おふえりや遺文』(一九三一)は、さらに、エキセントリックな作品である。
彼は、『土佐日記』の紀貫之のように、女性の口調を真似て次のように書いている。
何も、妾は気違いの真似をしようと思って笑っていたわけではないのです。どうぞそれは信じて下さい。室に這入って鍵をかけて、それから……それから、こうしてもう夜で、こうしてもう夜で、こうして何やらわけもわからず書いています。あとは、夜明けを待てばいいのです。こうして字を並べていれば、その中に夜が明けます。夜が明けたら、夜が明けたらと妾は念じているのです。夜が明けさえすればみんなお終いになる。何故って、そうなったんだもの、はっきり、そうだと、わかるんだもの、どうぞうまく行きますように。………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………おや、おや、点々ばかり書いていて、どうする気でしょう。女の手紙には、必度、点々があるものだ、と。あなたはおっしゃる。ありますとも、点々だって字は字です。あなただって、気違いは気違いです。早くクロオディヤス様をお殺しになるがいい、妾は知りません、何んにも知りません。……ああ、あなたは何と遠い処で暮らしていらっしゃる。
 吉本隆明も、江藤淳も、柄谷行人も、女性のような語りで作品を記してはいない。蓮実重彦が草野進として批評を公表しているものの、ここに見られるローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』ばりのアヴァンさには欠ける。ニューヨーク・ドールズがアンドロギュロス風に着飾っていたように、この語りはスチーム・パンク的な混成主体にほかならない。彼はちょっとしたモボのレトロ・クールを感じさせてくれる。
Take me now baby here as I am
Pull me close, try and understand
Desire is hunger is the fire I breathe
Love is a banquet on which we feed
Come on now try and understand
The way I feel when I知 in your hands
Take my hand come undercover
They can稚 hurt you now,
Can稚
hurt you now, can稚 hurt you now
Because the night belongs to lovers
Because the night belongs to lust
Because the night belongs to lovers
Because the night belongs to us
Have I doubt when I知 alone
Love is a ring, the telephone
Love is an angel disguised as lust
Here in our bed until the morning comes
Come on now try and understand
The way I feel under your command
Take my hand as the sun descends
They can稚 touch you now,
Can稚
touch you now, can稚 touch you now
Because the night belongs to lovers ...
With love we sleep
With doubt the vicious circle
Turn and burns
Without you I cannot live
Forgive, the yearning burning
I believe it痴 time, too real to feel
So touch me now, touch me now, touch me
now
Because the night belongs to lovers ...
Because tonight there are two lovers
If we believe in the night we trust
Because tonight there are two lovers ...
(Patti
Smith “Because The Night”)
 晩年に近い頃の新聞や雑誌に掲載したエッセーを収録した『考えるヒント』(一九六四)は日常的な事物や出来事あるいは書物などを対象にしているが、若き日々と違い文体こそおとなしいが、そのオルタナティブ志向のパンク性は健在である。小林秀雄は近代日本における文芸批評家のイメージを一般に広めた最大の人物なので、多くの評論やエッセーには小林秀雄の影響が見られる。亡くなった時に、文芸批評家としては異例の新聞の号外が配られたくらいだ。小林秀雄のヘゲモニーの獲得により告白が批評のメインストリームになり、諷刺はオルタナティブに押しやられてしまう。告白の批評の権威化は小林秀雄にとって背理である。そこで「小林秀雄」ならこう言うだろうというように、すなわち自己諷刺的に「小林秀雄」を演じる小林秀雄として書いている。
読者を失望させることなく、完璧な「小林秀雄」を『スランプ』において次のようにたっぷりと見せてくれる。
野球で、あの選手は、当りが出ているとか、この頃はスランプだとか言う。先日、国鉄の豊田選手と酒を飲んでいて、そのスランプの話になったが、彼は、面白い事を言った。「スランプが無くなれば、名人かな−−こいつは何とも言えない。だが、はっきりした事はある。若い選手達が、近頃はスランプなどとぬかしたら、この馬鹿野郎という事になるのさ」。その道の上手にならなければ、スランプの真意は解らない。下手なうちなら、未だ上手になる道はいくらでもある。上手になる工夫をすれば済む事で、話は楽だ。工夫の極まるところ、スランプという得体の知れない病気が現れるとは妙な事である。
 どうも困ったものだと豊田君は述懐する。周りからいろいろ批評されるが、当人には、皆、わかり切った事、言われなくても知っているし、やってもいる。だが、どういうわけだか当らない。つまり、どうするんだ、と訊ねたら、よく食って、よく眠って、ただ待っているんだと答えた。ただ、待っている、なるほどな、と私は相槌を打ったが、これは人ごとではあるまい、とひそかに思った。私はその道の上手でも何でもないが、文学で長年生計を立てて来たのだから、プロはプロである。スランプの何たるかを解しないでは相済まぬ次第であろうか。
野球は言うまでもなく、高度に肉体に関わる芸である。肉体というものは、自分のものでありながら、どうしてこうも自分の言う事を聞かぬものか、スポーツの魅力は、その苦労から出て来る。今日の文学の世界では、観察だとか批判だとか思想だとかいう言葉がしきりに使われ、そういうものに、文学は宰領されているとも見えるが、文学の纏ったそういう現代的な意匠に圧倒されずに、文学の正体を見るなら、文学もスポーツとそう違った事をやっているわけではなし、その基本的な魅力も、同じ性質の苦労から発している。では、文学者にとって、その肉体とは何か。自分の所有であり、自分の意に従うものと見えながら、実は決してそうではない肉体とは何だろう。それは、彼が使っている言葉というものだ。そう直ちに返答が出来るようになれば、文学者も一人前と言える。プロと言えるだろう。
私の職業は、批評であるから、仕事は、どうしても分析とか判断とかに主としてかかずらう。従って、こちらの合理的意識に、言葉は常に追従するという考えから逃れる事が難かしかった。その点で、詩人や小説家に比べて、成育が、余程遅れたと自分は思っている。だが、やがては思い知る時が来た。書くとは、分析する事でも判断する事でもない、言わば、言葉という球を正確に打とうとバットを振る事だ、と。私は野球選手ではないから、今はスランプだとは言わない。しかし、勝負に生きる選手の言うスランプという言葉が、勝負を知らぬ文学の仕事の上に類推されれば、スランプは私の常態だと言うだろう。職業には、職業の慣れというものがあるので、その慣れによって、意識の整備の為に、精神を集中するという事は、私にはさして難儀な事ではない。さて、そういう事が出来た後には何をすればよいか。ただ、待つのである。何処かしらから着想が現れ、それが言葉を整え、私の意識に何かを命ずる。私は、昔の人のように、陳腐なインスピレーションを待っている。
 このように、小林秀雄はどんな対象であっても、一気に自分の理解の範囲に引っ張りこんで、結論づけ、決めのフレーズで終わらせる。その際、「事」を連発し、「…でもなければ、…でもない。…だ」を忘れない。「小林秀雄」を演じられるのは小林秀雄以上でも、小林秀雄以下でもない。小林秀雄だけという事なのだ。
 『スランプ』と違い、その著作に収められた『漫画』というエッセーは、小林秀雄のパンク性を理解していなければ、これまで蓄積されてきた他の批評との整合性を欠くことになってしまう。彼の妹が『のらくろ』で知られる田川水疱の妻だったこともあって、当時害悪と見られていたパンクそのものの漫画に好意的であるだけでなく、一見したところでは、「小林秀雄」のイメージとは違った認識が次のように垣間見られる。
人を笑うのだけが笑いではない。子供ならみんな知っている。生きるのが楽しい、絶対的な笑いもある。いよいよ増大する批評的笑いの不安と痙攣との中で、この笑いを、恢復しようとしたのが、ディズニーの創作であったと考えてもいいだろう。子供は口実にすぎない。大人もみんな子供である、と言いたいのが彼の真意だと思う。
かつて、ディズニーの伝記を読んだ事があるが、ミッキー・マウスは、ディズニー彼自身だ。彼は、ミッキー・マウスによって、自分を語った。では、彼は、自分を笑ったのか。まさしくそうだと、と私は考える。漫画家には、愚痴をこぼす事も、威張る事も出来ないから、仕方なく笑ったのではあるまい。彼の笑いは、自嘲でも苦笑でもない。自分の馬鹿さ加減を眼の前に据えて、男らしく哄笑し得たのだと思う。そういう、人を笑う悪意からも、人から笑われる警戒心からも解放された、飾り気のない肯定的な笑いを、誰と頒ったらよいか。誰が一緒に笑ってくれるだろうか。子供である。子供相手の漫画の傑作が、二十世紀になってから、世人の信頼と友情とによって、大きな成功をおさめたのは、決して偶然ではない。
一般に笑いの芸術というものを考えてみても、その一番純粋で、力強いものは、日本でも外国でも、もはや少数の漫画家の手にしかない、とさえ思われる。今日の文学者は、もう陰気な喜劇しか書かない。それは、皆が思っているほど当り前な事であろうか。
 小林秀雄は、恐ろしいまでに、パンク性に反応する。「ディズニーは、ハリウッドの大立者としては珍しくユダヤ人ではなかった。そしてそのために彼は一つの大家族のようなこの街の社会とは常に一線を画してきた.だが彼は、他のスタジオが作る映画とはまったく違う、アニメ映画というジャンルで、やはりこの三〇年代に、アメリカ映画で確固たる地歩を築き上げたのである」(井上一馬『アメリカ映画の大教科書(下)』)。小林秀雄はほとんど笑いについて書いていない。『漫画』は彼における『薔薇の名前』である。ここでの小林秀雄はほとんどフリードリヒ・ニーチェの永劫回帰を語っている。小林秀雄は「小林秀雄」を超えている。
 積み重ねられてきたイメージに基づくのではなく、いささか洗練されていないかもしれないが、「”生”のフィーリングや”自由”」から小林秀雄を読むとき、オルタナティブを志向したパンクという姿が浮かんでくる。パンクの持つ荒々しい単純さを基盤に、さまざまな味つけを企てるオルタナティブが彼の切り開いた文芸批評である。
 小林秀雄は、『Xへの手紙』において、批評が世界を解釈することではなく、世界に何かを加えることだと次のように書いている。
整理する事は解決する事とは違う。整理された世界とは現実の世界にうまく対応するように作り上げられたもう一つの世界に過ぎぬ。俺はこの世界の存在をあるいは価値を聊かも疑ってはいない、というのきこの世界を信じた方がいいのか、疑った方がいいのか、そんな場所に果しなく重ね上げられる人間認識上の論議に何の興味も湧かないからだ。俺の興味をひく点はたった一つだ。それはこの世界が果して人間の生活信条になるかならないかという点にある。人間がこの世界を信ずるためにあるいは信じないために、何をこの世界に附加しているかという点だけだ。この世界を信ずるためにあるいは信じないために、どんな感情のシステムを必要としているかという点だけだ。一と口で言えばなんの事はない、この世界を多少信じている人と多少信じていない人が事実上のっぴきならない生き方をしている、丁度或るのっぴきならない一つの顔があると思えば、直ぐ隣りにまた改変し難い一つの顔があるようなものだ。俺はこれ以上魅惑的な風景に出会う事が出来ないし想像する事も出来ない。そうではないか、君はどう思う。
 彼は批評を世界を「整理する事」、すなわち世界を解釈することから、何かを世界に「附加」することへと移行させる。批評とは「人間がこの世界を信ずるためにあるいは信じないために」世界に何かを「附加」することである。その何かがオルタナティブにほかならない。
 小林秀雄は、『読者』において、そのオルタナティブがいかに生み出されるかについて次のように意識している。
 「週刊誌ブームについて意見が聞きたい」
 「週刊誌は、今、幾つくらい出ているのですか」
 「五十ぐらいはあるでしょう」
 「なんだ、それっぽっちか。二百ぐらいになるといいと思う」
 「マス・コミによる文学の質の低下というものをどう考えるか」
 「質は、逆に向上すると思う。電気洗濯機を見たまえ」
 「冗談は止めてもらいましょう」
 「僕は、真面目に君に聞いているのだ。君は、何故ジャーナリストとして、そんな風に、読者というものを見下しているのですか」
 「僕は文学者としてのあなたの意見を聞いているだけです」
 「無論、そうでしょう。私は話をはぐらかしてはいない。文学者だって、文学の進歩が考えられる限り、売り込み競争が烈しくなればなるほど、品質もよくなると考えるべきだと思うのです。それとも、文学を向上させる、何か他に名案でもあるというのか。野球選手は何によって向上したのだ」
 週刊誌ブームが、現代日本文化の病気であると考えるのは勝手であろうが、それが、ただ医者の見立てでは語らない。自ら患者になって、はっきりした病識を得てみなくては詰らない。批評家は直ぐ医者になりたがるが、批評精神は、むしろ患者の側に生きているものだ。医者が患者に質問する、一体、何処が、どんな具合に痛いのか。大概の患者は、どう返事しても、直ぐ何と拙い返事をしたものだと思うだろう。それが、シチュアシオンの感覚だと言っていい。私は、患者として、いつも自分の拙い返答の方を信用する事にしている。例えば、戦前派だとか戦後派だとかという医者の符牒を信用した事はない。
 裾野が広くならなければ質は向上しない。少数精鋭などありえない。「マンガがとても豊かな娯楽性を発揮して、大衆文化として根づいているとすれば、先鋭的な表現と定型的な表現とが互いに完全に分離しないで、交流しながら発展しているからだろうと考えられます。おうおうにして批評家やマニアがバカにしてしまうような作品、どこを読んでも同じような類型的な作品がたくさんあることによって、初めてマンガ文化全体が豊かなダイナミズムを持ちうるのです。『いいマンガ』、『優れたマンガ』、『先鋭的なマンガ』のみを評価して、『くだらないモノ』は排除するという発想でマンガをとらえると、自分で自分の首をしめるようなことになりかねません」(夏目房之介『マンガはなぜ面白いのか』)。
Color me your color, baby.
Color me your car.
Color me your color, darling.
I know who you are.
Come up off your color chart.
I know where you're coming
from.
Call me on the line.
Call me, call me any anytime.
Call me, my love, you can call
me any day or night.
Call me!
Cover me with kisses, baby.
Cover me with love.
Roll me in designer sheets.
I'll never get enough.
Emotions come, I don't know
why.
Cover up love's alibi.
Call me on the line.
Call me, call me any anytime.
Call me oh my love.
When you're ready we can share
the wine.
Call me.
Ooh, he speaks the languages of
love.
Ooh, amore, chiamami
(chiamami).
Oo, appelle-moi, mon cherie
(appelle-moi).
Anytime, anyplace, anywhere,
anyway!
Anytime, anyplace, anywhere,
any day, anyway!
Call me my love.
Call me, call me any anytime.
Call me for a ride.
Call me, call me for some
overtime.
Call me my love.
Call me, call me in a sweet
design.
Call me, call me for your
lover's lover's alibi.
Call me on the line.
Call me, call me any anytime..
Call me.
Oh, call me, ooh ooh ah.
Call me my love.
Call me, call me any anytime.
 (Blondie “Call Me (Theme From ‘American Gigolo’ Version)”)
小林秀雄は「くだらないモノ」、すなわちパンクの重要性を認めている。「いい」、「優れた」あるいは「先鋭的な」作品だけを評価してきたわけではない。パンクを見つけることで、彼の批評も活性化し続けている。彼は最初からメインストリームにいたわけではない。オルタナティブ・シーンからメインストリームにやってきたのであり、彼の批評もまたオルタナティブな領域に属している対象をメインストリームへとつれてくる。オルタナティブを従来のメインストリームとして認定することもないけれども、マイナーなままにしておかない。「洗練されない“生”のままのフィーリングや“自由”」を奪わないように、『私小説論』において、スリップストリームの必要性を訴えていた通り、小林秀雄は変流文学を志向していたのであり、正真正銘のパンクにほかならない。
 考えてみれば、ぼくが子供のころに育った、戦前の宝塚文化なんてのは、レビューやショーは、フランスやアメリカのマガイモノだった。エノケンがジャズを歌った、戦前の浅草文科だってマガイモノだった。
 むしろ、マガイモノであるからこそ、そこに一つの世界を作って、文化となりえたのだろう。それが、カーネギー・ホールまで行ってしまったら、ホンモノ志向がすぎる。
 ぼくの好みをさしひいて、なるべく文化論的に見たいのだが、ホンモノというものは公認の価値を志向しているだけで、新しい文化価値を生み出すのは、A級よりもかえってB級文化のような気がするのだ。
 形をA級にしたところで、せいぜいが既成のA級に伍してとの自己満足程度で、そのA級文化だって最初はB級文化だったのだ。映画の『アマデウス』のおもしろいところは、モーツァルトのオペラをB級文化風にとらえていることだった。
 むしろ、B級文化の渦のなかから出てくるものが、時代を変える。帝劇よりも浅草オペラ、名のだ。
 光るものは、B級のなかでも光る。A級にまじったところで、光らないものは光らない。B級文化が繁栄している時代というのは、文化的に成熟した時代だ。ぼくの好みはB級でぼくの時代がやって来た。
(森毅『B級文化のすすめ』)
〈了〉